| POSITISM | - 前向き親バカおとーさんの素敵な妄想エッセイ集。 - |
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右肩が、いや右半身が軋む。きっともうすぐその時は訪れるのだろう。カナエは怒っていたな。まぁ、それも当然だけれど。本当はあの笑顔が見たかった。時計が逆さまに回るなら、もう一度だけ。だけどこれでいい。これでいいんだ。自分に言い聞かせるように歩く。
仕事を辞めて自分の最後の場所を探した。自分が最後に眠りに付く場所を。そこへ向かって歩く。一歩進むごとに右半身が軋む。もう既に軋む音しか聞こえない。痛みすら感じない。医者の話では右半身の骨はもうほとんどなくなっているらしい。どうせなら全て綺麗に無くなればいいのに。
また一歩進む。今振り返ればカナエが見える。きっと泣いてるだろうな。カナエはウソを付くのが下手だ。きっとカナエは僕に何が起こっているのかを全部知っている。知っていて僕に合わせてくれたのだろう。自分の感情を抑えて、僕の幼稚な芝居に乗せられたふりをしてくれたのだろう。彼女のことが解るから、彼女の考えていることが解るからこそ、僕は今振り返ってはいけない。泣いてる彼女を見てはいけない。何も知らず、彼女を騙しきったと思いながら振り向かずに進むしかない。
――自分が最後に眠りに付く場所で
君と解り合えているという、これ以上ない幸福感を抱いて眠ろう。
雑踏の中の雑踏へ
人込みの奥の人込みへ
孤独の先の孤独まで。
タタンタタンタタン。トトントトントトン。
電車が線路を奏でる音が響く。
タタンタタンタタン。トトントトントトン。
僕を越えて、もうすぐ君の元へ。
タタンタタンタタン。トトントトントトン。
まるで心音、僕と君を繋ぐシグナルのように、続く。
タタンタタンタタン。
トトントトントトン。
完。
「会って、話がしたい」
彼がいなくなってから一ヶ月が過ぎようとしていたころ、それまで音信不通だった彼から連絡が入った。彼に指定された公園へ行く。日差しがジリリと暑かった。一ヶ月ぶりに見る彼は酷く痩せていて、とても小さく見えた。彼は軽く手を上げながら話し始める。
「やぁ、久しぶり」
「……」
「単刀直入に言うね、別れよう」
この一ヶ月、ずっと彼のことを考えていた。彼は癌に侵されている。それは藤山国立病院で結婚する予定だなんだと言って、無理やり聞き出したので確実だ。彼は自分が癌であることを、私には知られていないと思っているだろう。私はずっと考えていた。どうして家から出て行ったのか。そしてある結論に辿り着いた。彼は私に”何も背負わせないようにした”ということ。残り少ない自分の人生を賭けて、私のこれからの人生を辛くないものにしようとしてくれているのだろう。そんなことされても私は何一つ嬉しくなんてない。だから彼を張り倒してやろうとも思っていた。
――だけど、彼はきっともうすぐその命を終える。その彼自身の心残りが悲しんでいる私だとしたら、彼は安らかに眠れるだろうか?だから私は決めた。最後の最後まで、彼に騙されている私でいることを。だから涙は絶対に流さない。抱きついて泣きたい気持ちを振り切って、少し怒りながら切り出す。
「ちょっと待ってよ。そもそも何も言わずにどこに行ってるの?」
「ごめん。だけど、僕はもう君とは付き合っていけない」
「そんなの意味が解らないよ」
「ごめん」
「謝らないでよ……私が悪いみたいじゃない」
「……」
長い沈黙を破るように、電車の音が聴こえた。私達は公園を出て向かい合う。彼は「じゃぁね」と小さく言ってから手紙を差し出した。
「読み終わっても、振り向かないで」
彼はすれ違うように私の背中方向へ歩いていく。私は涙を堪えるので精一杯だった。それでもゆっくりと、ゆっくりと手紙を開く。
◇
カナエへ
突然君の前から消えて
突然現れて別れを告げたこと、ごめん。
僕は君を嫌いにはなれなくて
だけど僕は君に相応しい男でもない。
勝手に決め付けて
自分の事ばかり考えてしまう
弱い僕を許してください。
だけど、僕は君の前から消えます。
自分勝手でわがままで、弱虫の僕なんかより
君には相応しい人がいるはずです。
だから、僕のことなんて忘れてください。
ありがとうと愛してる。
それから、さよなら。
タカアキ
◇
私はその手紙をそっと胸に押し当てて、真っ直ぐ前を見つめる。我慢しきれずに一筋の涙が零れ落ちた。今すぐに彼を追いかければ追いつくことが出来る。ここで追いかけなかったら二度と、本当にもう二度と彼に会うことは出来ない。だけど、追いかけてしまったら彼はきっと凄く悲しみを抱えたまま眠りについてしまうのだろう。彼のことが解るから、彼の考えていることが解るからこそ、私は振り向けずにただ涙を流した。
タタンタタンタタン。トトントトントトン。
背中側から電車が線路を奏でる音が聴こえた。私はその場にへたり込んで泣いた。声はあげず、ただただ涙を流して泣いた。
手紙を胸に抱いて泣く。
立ち去る彼に聞こえませんように。
聞こえませんように。
――三ヶ月前。
彼との同棲生活が始まった。今までより早起きして彼の朝食、それからお弁当を作るようにした。彼の寝顔をしばらく堪能してから彼を起すのが幸せだった。だけど彼は元々早起きする人で、私が目を覚ますと同時に起きようとする。私はそれを無理やり寝かせるようにした。そうでもしないと彼の寝顔を堪能できないから。
心配事が二つほどある。一つは彼がたまに右肩を痛そうにしていること。肩こりだとは言っていたけれど少し心配。もう一つはなんとなく彼が私に隠し事をしている気がすること。それは最近彼が心の底から笑っていない気がするから。彼自身の中で何か心配ごとがあるのだろうか。もしかすると大量に作ってしまったカレーが、四日目に突入したことに怒っているのかもしれない。
「ねぇ、タカアキ。その、怒ってるの?」
「ん?なにを?」
「いや、ほらカレーばっかりでさ」
「ううん。僕、カレー好きだから大丈夫」
「それならいいんだけどさ」
「……おいしいよ」
「ありがとう」
なんとなく無理においしいと言わせた気がして悲しくなった。彼は食事のあといつもこっそり何かを飲んでいる。胃薬だったらどうしよう。いや、きっとサプリメントかなにかだろう。そう思っていた。
最近彼は無口になった気がする。常に何かを考えているような素振りをしている。やっぱりなにか悩み事があるかもしれない。相談したい悩みなら、きっともう相談されてるはずだから、きっと相談の出来ない悩みなんだろう。そう思うとこちらから聞くようなことは出来なかった。
――一ヵ月後。
いつものように仕事を終えて家に帰ると、何か変な気分になった。買ってきたものを片付けて、テレビの電源を入れる。ソーダ水をコップに入れてソファに腰掛けた。
「なんだろう、なんか変だよね」
独り言。何が変なのか解らない。ただ、家中が妙に片付いている気がする。部屋着に着替えるために着ていた服を洗面所にある洗濯カゴに放り込んだ。部屋干ししていた洗濯物に目が行った瞬間、私は気が付いた。何が”変”なのかに。彼の下着だけが無くなっていた。
「ウソ、でしょ?」
慌てて寝室へ走る。ない。彼の机や仕事で使う物。タンスを開ける。ここにもない。彼の服、下着、クリーニングから返って来ていたスーツもシャツも。台所へ走る。ここもだ。彼の持ってきたグラス、食器もない。玄関。靴、サンダルもない。もう一度洗面所。歯ブラシもない。彼の物が全て綺麗に無くなっていた。もう一度見回すと引越し後の部屋のように、家中が片付いている。それが妙に悲しかった。
携帯電話で彼に連絡してみる。――繋がらない。まだ会社にいるかも知れない。昔の知り合いである事務員へ電話をした。
「もしもし、久しぶり」
「香苗、久しぶりどうしたの?」
「えっと、孝明……近藤さんいる?」
「え?近藤さんって、香苗が付き合ってた近藤さん?」
「付き合ってたって何よ?今も付き合ってるわよ」
「ウソ……だって近藤さん随分前に別れたって、送別会のとき言ってたけど?」
「え?送別会?」
「知らないの?近藤さん先月でうちの会社辞めてるよ」
「そんな……」
電話を切ってから私は力が抜けた。彼は一ヶ月前からこうすることを決めていたんだろう。何が悪かった?何がいけなかった?私は彼に苦しい思いをずっとさせていたんだろうか。そう思うと胸が苦しくなって、我慢していた涙が溢れ出た。
随分泣いて、あまり得意じゃないお酒を飲んで気分が悪くなった。なんとか気分を変えようとソーダ水を取りに冷蔵庫を開けた。冷蔵庫からソーダ水を取り出すして扉を閉めようとしたその瞬間。彼の物がなにもかも無くなったこの家の中で、たった一つ彼の物が残っているのを発見した。それは酷く慌てて入れられたらしく、ぐしゃぐしゃに冷蔵庫の隅の隅へと押し込まれていた。藁をも掴む気持ちで私はそれを引きずり出した。
――紙袋。藤山国立病院の文字。内容物:シスプラチン。
私はこの発見をしなければ良かったのだろうか。それを調べなければ良かったのだろうか。インターネットの検索エンジンに打ち込まれた”シスプラチン”という文字。そして検索結果に表示されている”抗悪性腫瘍剤(抗がん剤)”の文字。
彼の右肩、彼が私に隠し事をしている気がする。二つの心配事が不必要に繋がってしまった。
彼は、癌だ。
――五ヶ月前。
彼が仕事を誰よりも頑張っていたのは、春から私と一緒に暮らすためだった。二人で物件情報を探すのが恒例行事になって、不動産屋に出かけて、実際に物件見て検討したりした。
ある日見に行ったマンションを始めてみた時、植え込みの手入れ、共有スペースの綺麗さに驚いた。マンションの周りに色んな草木が植えてあって、それもきちんとお世話されていて綺麗だ。その植物の中から管理人さんが現れたのに驚いたりもした。部屋の中を見る前に私は「ここだな」と感じていた。彼もまんざらじゃなさそうだ。
その後とんとん拍子で話が進み、私達は春からこのマンションで暮らすことになった。家賃は折半、オーナーさんでもある管理人さんに「分譲できますよ」と言われた。「時期が来たらお願いします」と答えておいた。
「決めちゃったね」
「うん」
「えと、不束者ですが、春からよろしくお願いします」
「いや、こちらこそ、その、よろしくお願いします」
お互いに顔を真っ赤にしながら、かしこまった挨拶をした。彼は私との約束のためにきつい仕事も乗り越えて、毎日ギリギリにところまで追い込んで頑張ってきていた。一途に想われる幸せ。誰よりも大切にされているという幸せ。私ばかりが幸せを感じている気がする。彼は私と一緒にいることで、なにか幸せを感じられているのかな。そう思うと少し申し訳ないような気がして、一緒に暮らし始めたらきっちり家事をこなして、少しでも彼が幸せだと感じられるようにしよう。そう決めた。
相変わらず彼の仕事は忙しくて、週末もそんなに会えない日々が続いていた。たまに会う彼は疲れた顔をしながら「もう少しで山場を越えるから大丈夫」と笑いながら言っていた。私はそう言う彼に「身体には気をつけてね」としか言えなかった。
「もうすぐ、四月だね」
「うん。四月になったらカナエと一緒に暮らせると思うと、嬉しくて疲れなんて飛んでいくよ」
「だからって無理はしないでよ?」
「解ってるよ」
「……あの、ね」
「どうした?」
「私で、いいの?」
「なにが?」
「その、タカアキと一緒に暮らす人」
「えー?そんなのいいに決まってるよ」
「うん、ありがとう」
本当は一緒に暮らす人じゃなくて、お嫁さんになる人と聞きたかったのに聞けなかった。付き合って三年で同棲をする。これはそういうことなんだろうと思う。私は彼の支えになって生きていきたい。
――七ヶ月前。
長崎。中学の修学旅行以来に訪れたその場所は、修学旅行の頃の雰囲気を残しつつ、新しくなる場所は新しく変わっていた。変わらないものを変わらないままに保つのは難しいことなのだと思った。そんなことを考えながら歩く。
「変わらないようで、変わるんだな」
私が考えていたことを彼が小さくつぶやいた。まるで代弁してるみたいに。
「え、なに?」
「ううん。なんでもないんだけどね」
なんとなく彼は懐かしむように長崎を見ている気がする。やはりここは彼のゆかりの地なんだろう。予想がほぼ確信に変わる。彼はこの街でどんな風に育ってきたのだろうか。
「なんか、タカアキ懐かしがってるよね」
「え、そう?」
「心の奥で楽しんでるでしょ?」
「んー、どうだろ」
「ま、タカアキが楽しいなら、私はそれだけで嬉しいからいいけどね」
自分の大切な場所へ、彼が私を連れてきてくれたことが嬉しくて笑った。いつか彼が話す気になれたなら、私は聞きたいことが沢山ある。子供の頃の誕生日、クリスマス。小学生の頃にしたイタズラだとか、カブトムシを捕った話だとか初恋とか。彼がどんな経験を経てきたのかを聞いてみたい。今はまだそれを聞くタイミングではないけれど、その日が来るのが楽しみになった。
旅行も無事に終わり年末。彼とこたつの中で新年の挨拶をしてから軽く眠りに落ちた。目覚めてから初詣に出かける。簡単にお願いを終えて目を開くと、彼は真剣にお願いを続けていた。気になって聞いてみる。
「ねぇ、何お願いしたの?」
「えーとね、約束を護れますようにって」
「約束?」
「そのために仕事も頑張れるしね」
そう言いながら少しだけ彼が誇らしげに笑ったのが眩しく見えた。
「もしかしてさ、その約束って……」
「春になったらさ、一緒に住もう」
恥ずかしいからなのか、少しだけ先に進んで背中越しにそう言われた。嬉しくて涙が出そうになるのを我慢する。
「……うん」
そう返事をしてから彼の腕に抱きついてみる。彼はここのところ少し痩せたように思う。
私の願いは「彼と二人、健康で素敵な一年になりますように」だ。あと最近彼が気にしている肩こりも一緒に治るといいな。
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